日韓の二千年の歴史14/高麗郡の誕生

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聖天院と高麗神社

日本に来ても渡来人は故国ごとに分類されて「百済人」「高句麗人」「新羅人」と呼ばれていたが、彼らは次々に武蔵(現在の東京都と埼玉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)に移っていった。朝廷が東国開発を本格化させていた影響を受けたものだ。
そうした移住政策の一環として、若光に率いられた高句麗人たちが706年から相模に定住したわけだが、朝廷はさらに大規模な東国開発を計画し、716年に実施された。その際、駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模、上総(千葉)、下総(千葉)、常陸、下野に住む高句麗人1799人を武蔵に移して「高麗郡」を新設した。
新たな郡が設置された背景には、東国に分散していた高句麗人たちを同じ場所に集中させることを嘆願する勢力の存在がある。それは、高句麗系の特権階級たちだ。彼らは、百済系や新羅系とは一線を画し、自分たちの勢力を関東で集約させることを願った。それが高麗郡への集中移住に結びついた。
しかし、すでに居住地で生活の基盤を作っている高句麗人も多く、移住には不満も出た。そうした不満を抑える指導者が必要となった。その適任者が、すでに大磯で実績を作っていた若光だったのである。彼は最初の高麗郡長官に任命されて、相模から武蔵に移ってきた。




高句麗が滅亡する2年前の666年に日本に来ているから、716年というと、すでに50年の歳月が流れている。当時としては、どれほどの高齢だったのか。それにもかかわらず、彼はりっぱに職責を果たし、新しい土地で尊敬を集めた。
その若光の菩提寺として751年に創建されたのが聖天院である。高麗郡の本寺として知られ、江戸時代には「院主の格式は諸公に準ずる」と言われるほどの格式を誇った。若光の墓と伝えられる「高麗王廟」が聖天院にあるのも、そこが彼の菩提寺だからだ。
その聖天院から500mほど北には高麗神社がある。若光を祀る神社で、宮司は若光の子孫が代々務めている。
今に至るまで、若光の血が旧高麗郡の地に伝わっていることに驚く。古代が連綿と現代につながっていることの証明ではないだろうか。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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