日本の世襲問題
対馬藩が朝鮮王朝に対して臣下の礼をとり、官位を授けられ歳米も得ているのは事実であるが、同時に日本の領土であることは明らかだった。
しかも、朝鮮通信使は日本との友好を目的として派遣されており、中でも対馬藩は接待役として重要な役割を担っている。そうした現状に対して、申維翰はもう少し思いを尽くすべきだった。
もう1つ興味深いのは、申維翰が、対馬藩主が詩文を解さないことを拝礼拒否の理由の1つにあげている点だ。
科挙に合格したエリート文士としての誇りがそうさせるのであろうが、詩文の能力が官吏への絶対条件になる朝鮮王朝と、むしろ武が重んじられている日本の制度とはまったく違うことを理解しなければならない。
同じことが、日本の世襲問題にもいえる。申維翰は各地の日本人と交流を深めるにつれて、日本の世襲制度に疑問を投げかけている。徳川幕府の大学頭の林信篤が詩文において劣っていることを心の中で嘲笑していたりする。
彼は、自国の科挙制度の礼讃者であるので、当然ながら、日本の官職のあり方には批判的である。芳洲のように文章に優れ実務能力に長じていた儒学者が対馬のような小藩の書記役に留まっているのに対し、林信篤のような人物が幕府の要職についていることが、どうしても解せないといった風である。
しかし、申維翰自身の物の見方はあまりに朱子学的であり、いかにも科挙に合格した儒学者といった印象が強烈だ。
格式にあまりにこだわりすぎて、異国でのさまざまな場面で柔軟な発想ができなかったと言える(第6回に続く)。
文=康 熙奉(カン ヒボン)