朝鮮通信使(世界記憶遺産)の歴史〔3〕

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国書偽造事件

1609年、対馬藩は朝鮮王朝との間で己酉約条を締結して、本格的な貿易を再開していった。
釜山(プサン)には倭館が設置され、常時600人ほどの対馬藩士と商人が駐在し、貿易一般に関わることや日朝間の外交交渉などが行なわれた。いわば、江戸時代の日本がもっていた唯一の在外公館だったのである。
しかし、対馬藩では朝鮮王朝との関係修復をあせるあまり、国交回復交渉の過程で交わされた日朝間の国書を偽造する大事件を起こしていた。幕府と朝鮮王朝の間に入って、両国の体面保持に都合が良いように、徳川将軍の呼称や文面を勝手に書き直していたのである。朝鮮国王の印鑑は対馬の職人に新たに作らせており、その改ざんはひんぱんに行なわれていた。




このことが対馬藩内部のお家騒動の過程で幕府側の知るところとなった。1633年のことである。対馬藩主の宗義成と対立した家老の柳川調興が内部告白して、事実を幕府側に暴露してしまったのだ。
この事件には、柳川家の特異な立場が関係していた。というのは、柳川家は対馬藩士でありながら、徳川家の直参旗本でもあった。朝鮮王朝との国交回復に功績があった対馬藩は、かつて徳川家康から2800石の加増を得たが、その内の1000石は幕府から直接柳川家に与えられていた。結果的に、幕府から優遇されているという意識が柳川家を増長させ、分をわきまえない態度が主家との争いを引き起こすに至った。
対馬藩が国事をゆるがす重大犯罪を重ねていたことが露顕し、宗氏の取り潰しは必至の情勢となった。しかし、結果は意外にも、柳川調興が国書偽造の罪をきせられて津軽に流罪となり、宗家は安泰だった。日朝関係に重要な役割を演じている宗家を取り潰すわけにもいかない事情が幕府側にもあったのだ。(ページ3に続く)

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