歴史的に見ると、徳川幕府も朝鮮王朝も儒教を社会倫理の根幹として受け入れ、社会制度の中に組みこんでいた。特に、儒教の中でも名分を重んじる朱子学が中心であった。ただし、世間に浸透する深みには日本と朝鮮半島で違いがあった。
江戸時代の儒教
徳川幕府は儒教を政治的に利用しようとした。
徳川家康は1603年に江戸に幕府を開いたが、武断的政策を進める中で、政権安定のために戦国以来殺伐とした人心を転換していく必要を痛感していた。そうした教学振興も、儒教を官学に採用した目的の一つであった。
もちろん、それだけが理由ではない。家康は儒教によって江戸幕府の正統性をはかろうと腐心した。
また、身分制度(士農工商)の確立に、儒教を巧みに取り込んだ。儒教は格式や序列を重くみる傾向が強く、幕府にとって都合が良かったのである。
現実に儒教は江戸時代に武士階級の思想確立や生活規範として隆盛を見た。ただ、あくまでも士農工商の「士」の世界のみであって、一般の民衆に儒教が特別の役割を果たすことはなかった。日本における儒教はあくまでも支配階級の学問的素養という性格が強かったのである。(ページ2に続く)