多才な資質が開花
1929年、38歳のときに巧は『朝鮮の膳』という著書も発行している。この本では、日常生活に欠かせない膳を工芸の象徴と捉え、朝鮮半島に伝わる膳の形式美を愛情深く論じている。
林業技術者と工芸品研究家。まったく相反する分野のように思えても、そこには巧なりの共通点があった。彼は「朝鮮の膳の温もりは雑木を生かしているからだ」と論じている。巧が朝鮮の工芸に深い理解を示したのは、彼が自然を愛する心を強く持っていたからに他ならない。
そうした生活の中で、巧の多才な資質は、朝鮮の地で一気に開花した。
現地の水は巧によほど合っていたのだろう。普段の彼は、朝鮮の服を着て、朝鮮語を話し、朝鮮の人々と活発に交流した。
当時、日本人による朝鮮蔑視は甚だしいものがあったが、巧は時代に流されず人間の尊厳に心を注げる人物だった。
惜しむらくは、1931年に40歳の若さで亡くなったことだ。死因は急性肺炎だった。墓所はソウル郊外に作られ、彼を慕う林業関係者たちによって守られた。(ページ3に続く)