康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓近世史は面白い!」朝鮮出兵後の国交回復(中編)

このエントリーをはてなブックマークに追加

 

朝鮮王朝は、徳川幕府が望んだ国交回復に対して、「日本側からまず国書を出して使節を招聘すること。さらに、豊臣軍の侵攻時に王家の陵墓を荒らした犯人を差し出すこと」という条件を出した。対馬藩は朝鮮王朝が言うとおりにしたのだが、国書も犯人もニセモノだった。そのことは朝鮮王朝もすぐにわかった。

静岡市の駿府公園に立つ徳川家康の像

静岡市の駿府公園に立つ徳川家康の像

朝鮮王朝の要望が通った

ニセモノを寄越した対馬藩。朝鮮王朝が激怒しても当たり前なのに、あえてそうしなかった。

切実だったのは、戦乱の最中に日本に連行された人々(被虜人と言う)を早急に帰国させることだった。

その数は5万人にのぼると推定されていた。被虜人の家族から無数の嘆願書が朝廷に届いていて、それに対応する必要に迫られていた。

そのためには、使節を日本に派遣して徳川幕府と交渉しなければならない。

また、国書と罪人がニセモノであるとしても、あくまでも形の上では朝鮮王朝側の要望通りになっていた。

つまり、日本側を代表している対馬藩が国書を先に持参してきたことは、それを受ける形の朝鮮王朝がずっと有利な立場になったことを意味していた。

一応の形が整っていることを理由にして、朝鮮王朝は使節の派遣を決めた。使節の名称は、従来であれば「通信使」とするのが慣例だが、今回は家康の国書に対して回答するという名目を前面に出して、「回答使」にした。(ページ2に続く)

ページ:

1

2 3 4

関連記事

ページ上部へ戻る