日本のコリアをゆく(百済寺跡・鬼室神社編2)

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百済王が暫定的に復活

鬼室福信が帰還を要請した豊璋とは、どんな人物なのだろうか。

豊璋が日本に渡ったのは、631年のことである。以後、豊璋は弟の勇とともに、ずっと日本に住んでいた。義慈王の息子でありながら、なぜ彼らは日本にいなければならなかったのか。表向きは「人質だった」とされている。

この時期の百済は、高句麗(コグリョ)と新羅を牽制するために日本の朝廷との関係を深めていて、いつでも朝廷の協力を得られるように、人質として豊璋を送っていたというわけだ。

ただし、単純な人質ではなかったと思われる。当時の朝廷には高句麗や新羅からも多くの人たちが技術を持ってやってきており、日本でも朝鮮半島の三国による駆け引きがあった。その中で豊璋は日本の国情を探るという目的を持っていたのかもしれない。




豊璋は学問にも優れ、中国の故事にも精通していたので、朝廷でとても重用されていた。その功績を認め、朝廷も豊璋の帰国を許した。

しかも、豊璋は日本の5千人の兵とともに百済に戻ることになった。それほど、当時の朝廷は百済に対して協力を惜しまなかった。

百済に戻った豊璋は、福信が本拠地にしていた場所で、662年5月に即位式を行なった。義慈王の後を継いで百済の暫定的な王に就任したのだ。

福信は、自分の持っていた権力のすべてを豊璋に譲り、自らはその臣下となって新羅・唐の連合軍との戦いに挑んでいった。

形の上では、義慈王の息子が後継者になったことで、百済は再興されたも同然だった。都は相変わらず新羅・唐の連合軍に占領されていたとはいえ、福信の勢力はその他の地域を次々と取り戻し、都の奪還に狙いをしぼった。

そのままいけば、百済が新羅・唐の連合軍を追い払うことも可能だったのだが……。

勢いに水を差したのが福信と豊璋の内紛だった。
(ページ3に続く)

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