第1回/釜山の賑やかな通り
今回の対談相手は、編集ライターの小原宏延(おばら ひろのぶ)さんです。
康「初めて2人で一緒に韓国に行ったのは、1999年11月ですね」
小原「出発したのは11月9日。釜山(プサン)までビートル号で行きました」
康「普通は飛行機でソウルに飛ぶことが多いと思いますが、我々はあえて日本と韓国のことを考えて、船で行ってみた。でも、関釜フェリーが故障して船が出なかったので、博多から高速船で行きましたね」
小原「高速船は3時間くらいだから、夕方に着きましたね。そのまま上陸して、いきなり釜山の匂いを嗅ぎました」
康「船で上陸すると町の匂いが一気にきます。ニンニクとゴマ油と唐辛子などが全部混ざったような匂いが潮風に運ばれてきたので、やっぱり大陸に来たなという感じはありました。飛行機とは違って、釜山という韓国で一番大きな港に直接入っていくのがよかったです。それから、博多から釜山に行く間に対馬がくっきり見えましたね」
小原「わりと平らで大きな島でした」
康「そうやって玄界灘を渡りながら、対馬を見て釜山に入る。海を越えて島国から大陸へ行ったような感覚がありました」
小原「まさしく日韓の水路。水の上を渡った入国は理想的ですね。ちょっと遠回りにはなったけど、逆にいい入りかたになったと思いました」
康「2人で一緒に釜山に入ったらロシアの船員がものすごく多かったです」
小原「あの有名な通りね」
康「あれはテキサス通りって言いましたね」
小原「もともとはね。でも、ロシアン通りになっていたんですよね」
康「最初はアメリカ人が多く、そのアメリカ人と結婚した韓国の女性たちがかなりいた。それで、テキサス通りという名前だったんですよ。それは1950年代から60年代。でも、我々が行ったころは完全にロシアン通りでしたね」
小原「大きな港だからロシアの船も多いのでしょう」
康「ロシアの船にとっては、釜山で食糧や水の補給をして船員たちが休むんですよ。そういう意味で言うと、釜山という東アジアの港のダイナミズムを感じました」
小原「ちょっと昔に流行った『釜山港へ帰れ』じゃないですが、日本人にとっても釜山は、いろんな意味で濃密な名前でしたね。そこから上陸して、ロシア人の多いテキサス通りの眺めはなかなかエキゾチックです。しかも、大衆的で民族臭が強いというか、大都会のモダンなところよりも味わい深かったですね」
康「ロシアの船員相手に屋台をやっていたおばさんがいたでしょ。すごくエネルギッシュでどんどんいろんなものを作って繁盛していました。あのおばさんの屋台は、美味しくて安くてすごくよかったので、何年か経ってまた行ってみたら、屋台じゃなくて建物の中に自分の店を構えていたんです。でも、客が全然いなかった」
小原「なぜ?」
康「屋台だからあれだけ安くできた。建物に入って家賃が生まれたら値段が上がったんでしょ。そしたら船員たちも寄りつかなくなったみたいです。僕もその店には入らなかったですが、中を覗いたらおばさんが暇そうに座っていましたよ」
小原「僕も覚えていますよ。あのおばさんが『私は、この屋台で娘2人をアメリカに留学させた』と言っていましたよ」
康「せっかく常設の店を持ったのに、逆に客が寄りつかないとは皮肉なものですね」
小原「えてして、そういうものですよ」
康「釜山から入って、有名な仏国寺(プルグッサ)とか、安東(アンドン)の河回村(ハフェマウル)に行きました」
小原「仏国寺も河回村も良かったね。それから鉄道。ずっと列車で移動したけれど、韓国の鉄道は旅情がたっぷりでした」
(文=「ロコレ」編集部)