韓国はなぜ日本の植民地になったのか/一問一答編2

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一問一答形式で康熙奉(カン・ヒボン)が語るシリーズの第2回目です。徳川幕府と朝鮮王朝は友好関係を維持していましたが、明治政府に変わると一転します。両国の関係は断絶し、明治政府は朝鮮半島での権益を狙って武力での威嚇(いかく)を始めました。




両国の国力の差

――1876年2月に日朝修好条規(江華条約)が締結されました。どんな条約なのでしょうか。
康熙奉「この条約によって朝鮮王朝は、主要な港の開港、自由貿易の推進、日本領事による治外法権などの重要事項を呑まされました」
――それは、朝鮮王朝にとっては不利なのですか。
康熙奉「日本の武力を恐れた朝鮮王朝は、自国に不平等と知りながら条約を結ばざるをえなかったのです。開国に踏み切った朝鮮王朝は以後、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスとも外交関係を築きました。しかし、結んだ条約は、どれも不平等条約でした。いずれにしても、日朝修好条規を結んだ1876年の時点で、すでに日本と朝鮮半島は国力に差が出ていました。日本は富国強兵政策を進めていって、武力を着実に強化していました」




――当時の朝鮮王朝の状況は?
康熙奉「政治の腐敗や前近代的な制度の固執などで、日本に比べて武力が劣っていました。そんな朝鮮王朝でも、明治維新に成功した日本に学ばなければならない、という考えを持った開化派が台頭した時期がありました。彼らは1884年12月に日本の後押しを受けてクーデターを起こし、一時的に王宮を占拠しました。これは、甲申(カプシン)事変、と呼ばれています」(ページ2に続く)

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